やりたいことが見つからない人に必要な「自分哲学」

やりたいことが見つからない原因

世の中には、「やりたいことをやりましょう」というメッセージが溢れています。

それ自体は間違いではありませんし、「そうだよね」と頷く人も多いと思います。人は、自分の内側から湧き上がるものに従って生きた方が、人生の流れも自然になります。仕事でも、人間関係でも、暮らし方でも、そうしたものを無視し続けると、いずれ無理が出てきます。

ただ、「自分のやりたいことをやろう」と思っていざ動こうとすると、多くの人が立ち止まってしまいます。

「自分のやりたいことは何なのだろう」
「何か始めたい気持ちはあるけれど、これだと言い切れるものがない」
「やってみても、すぐに飽きてしまう」

こうした悩みは、珍しいものではありません。

私は、この「やりたいことが見つからない」という問題を考えるうえで必要なのは、哲学だと思っています。

ただし、ここでいう哲学とは、ニーチェやヘーゲルの思想を学びましょう、という意味ではありません。そうした学問としての哲学にも大きな意味がありますが、日常の中でやりたいことを見つけ、行動を続けていくために必要なのは、もっと自分の生活や感覚に根差した哲学です。

私はそれを、「自分哲学」と呼んでいます。

行動の前には、必ず定義がある

自分哲学とは、簡単に言えば「AはBだと私は思う」という自分なりの定義のことです。

たとえば、弁護士や営業マンや大工といった自分の仕事について、あるいは写真撮影や旅行やサーフィンといった自分の趣味について、辞書的な正解ではなく、「こういうものだと自分は思う」と定義するものです。

私たちは、何かを行動に移す前に、必ずその前提となる定義を持っています。たとえ本人が自覚していなくても、行動の前には論理があり、その論理の前には定義があります。

「AはBである」と定義するからこそ、「では、その前提に基づいて、こうしてみよう」という論理が生まれます。そして、その論理に従って行動が生まれます。

反対に、この定義が曖昧なままだと、行動は単発で終わりがちになります。

「これが自分のやりたいことかもしれない」と思って何かに飛びついても、しばらくすると「なんだかしっくりこない」と感じる。世の中の「やりたいことをやろう」というスローガンに乗って動いてみたけれど、結局は続かなかった。そういう経験を持つ人は多いと思います。

また、「これは効率的だ」「合理的だ」「将来のためになる」と考えて始めたことでも、途中で退屈になって投げ出してしまうことがあります。

それは、行動力が足りないからとは限りません。また、根性がないからでもありません。

行動と論理のさらに前にある、「自分にとって、それは何なのか」という定義がないまま動いているため、自分の内面と行動が繋がらないのです。

一流の仕事には、その人の哲学がある

一流の仕事をしている人を見ると、その人は自分の仕事に対して、何らかの哲学を持っています。

東京都四谷にある日本屈指の予約困難店として知られる寿司店「三谷」の店主は、インタビューの中で、料理人とは「生産者とお客様の橋渡し役」だと語っています。

これは、単なる格好つけの言葉ではありません。

「料理人とは、生産者とお客様の橋渡し役である」と定義していることで、そこから論理が展開しています。

生産者が心を込めて作ったものを、お客様に最もよい状態で届けるにはどうすればよいか。寿司の温度や湿度を管理し、最高の状態で口に入るように整えるにはどうすればよいか。

その論理の結果として、彼の場合は「桐箱を使って保湿や温度管理をする」という具体的なアイデアと行動が生まれています。

もちろん、寿司の鮮度管理や温度管理そのものは、科学的で合理的な思考です。しかし、その合理性だけが行動を生んでいるわけではありません。その前提には、「料理人とは何か」という、その人自身の感情や感覚に根差した定義があります。

ここが重要なところです。

自分哲学とは、単なる理屈ではありません。感情や経験や感覚を通って生まれた、自分なりの定義です。

だからこそ、同じ料理人であっても、答えは一つではありません。

ある料理人は、「料理人とは、自分自身が楽しみ、人に喜びを与えられる人」と考えています。別の料理人は、「料理人とは、自分自身に厳しく、誰もやってこなかったことに挑戦している人」と考えています。

その二つに対して、どちらが正しい、どちらが間違っている、と考えるのは無意味です。

その人が生きてきた経験、積み重ねてきた仕事、感じてきた喜びや悔しさ、何度も反芻してきた思考によって、それぞれの定義が生まれています。

自分哲学には、正解はないが深さがある

自分哲学の面白いところは、正解がないことです。

しかし、正解がないからといって、何でもよいというわけでもありません。そこには深さがあります。

たとえば、ラーメンは日本の国民食と言えるほど、多くの人に親しまれています。一般の人が「ラーメンとは何か」と考えたとき、多くの場合は、好きな味、好きな店、思い出の一杯といったところから答えるでしょう。

一方で、ラーメン屋の店主が「ラーメンとは何か」と考えると、その答えはまったく違ってくるはずです。

なぜなら、ラーメンに対して一般的に思い浮かぶ麺、スープ、香りといった要素だけでなく、業界のトレンドや食材の調達ルート、お客様が店に入ってから帰るまでの顧客体験、毎日同じ味を提供することといった複雑な要素が絡み合って、ラーメンを定義することになるからです。

このように同じ「ラーメンとは」という問いでも、その仕事に深く関わっている人ほど、答えの層が厚くなります。

辞書でラーメンを引けば、「中華麺をスープに入れたもの」というような説明になるかもしれません。寿司であれば、「酢飯の上に魚介をのせたもの」と説明されるでしょう。

それは客観的な説明としては間違っていません。

しかし、ラーメン屋の主人や寿司屋の主人に同じことを聞いたとき、返ってくる答えは、それだけではないはずです。もっと主観的で、もっと経験に根差したものになります。

このように、自分哲学には正解がありません。しかし、経験の蓄積によって深まっていきます。

だからこそ、この世には異なるタイプの優れた仕事が山ほどあります。

同じ料理でも、同じ文章でも、同じ接客でも、同じ商売でも、その人が何を大切にしているかによって、まったく違う形になります。そこに、その人らしさが出ます。

その人らしさとは、単なる個性の演出ではありません。

「自分にとって、これはこういうものだ」という定義から生まれる、行動の一貫性です。

まずは「やりたいこと」と「やってみたいこと」を分ける

とはいえ、いきなり「自分哲学を持ちなさい」と言われても、すぐにできるものではありません。

それが簡単にできるなら、そもそも誰も「自分のやりたいことが分からない」と悩まないはずです。

そこで、大切なのは、「やりたいこと」と「やってみたいこと」を分けることです。

本当の意味でのやりたいことは、ある程度の行動が蓄積したあとに見えてきます。いろいろ試し、振り返り、自分が何に惹かれたのか、何に違和感を覚えたのか、次は何をやってみたいと思ったのかをまとめていく。

その積み重ねの中で、自分の着眼点がだんだん明らかになっていきます。

しかし、「自分のやりたいことは何だろう」と悩んでいる段階では、そもそも判断材料が足りないこともよくあります。

自分を振り返っても、はっきりした答えが出てこない。それは、自分が空っぽだからではありません。まだ、自分の反応を見つけるための経験のデータが十分に集まっていないだけかもしれません。

だからこそ、最初は「やりたいこと」を見つけようとしすぎない方がうまくいきます。

まずは、「やってみたいこと」をやってみる。

この段階で大切なのは、それが本当に意味のあることか、やって後悔しないか、将来につながるかといった結果を気にしすぎないことです。

気になったことをやる。楽しそうなことをやる。人にすすめられたからやる。流行っていることを試してみる。そういった調子で構いません。

自分に響くポイントをまだ突き止められていないのに、百発百中で「やってよかったこと」に出会えるはずがありません。

むしろ、「自分がやりたいことを特定するために、やってみたいことを手当たり次第に試しているのだ」と自覚しておく方が、フットワークは軽くなります。

ただ、やってみたいことを試したら、その体験を振り返り、感想をまとめる時間を作ってください。

やってみて違ったなら、それも一つのデータです。思ったより面白かったなら、それも一つのデータです。途中で飽きたとしても、「自分はどこで飽きたのか」を見れば、そこにもヒントがあります。

こうした振り返りをせずに、ただやってみたいことをやってみるだけだと、次にやってみたいことを見つけるのがだんだん苦しくなってきます。

「自分にとって、これは何なのか」
「この行動を通して、何を感じ、何を見たのか」
「自分はどういうものに惹かれる傾向があるのか?」

こうした感想をまとめることで、次にやってみたいことが浮かんでくるようになります。

経験を振り返ると、自分の着眼点が見えてくる

私の相談者の中に、いろいろなことを試していた人がいました。

サーフィン、フルイドアート、陶芸、日本庭園鑑賞。最初から「これが人生をかけてやりたいことだ」と分かっていたわけではありません。気になることを一つずつ試していたのです。

そして、その複数の経験を振り返ったことで、その人は「自分は美しいものが好きなのだ」と気づきました。

すると、そこから美術館巡りや生花へと関心が繋がっていきました。

これは、とても自然な流れです。

最初から「私は美を探求したい」と言語化できていたわけではありません。いくつかの経験を振り返ったことで、彼は「美しいものに惹かれる」という自分の着眼点に気づきました。

そして、その着眼点に気づく同時に、「自分にとって日本庭園とは」「自分にとって生花とは」という定義も自分の中に出来上がり始めていて、次にやってみたいことが自然と浮かんでくるようになっていました。

「次はこの美術館に行ってみたい」
「この花を生けてみたい」
「この庭園の美しさについて、もっと知りたい」

こうして、行動が単発で終わらず、次の好奇心へと繋がります。

これが、いわゆる「やりたいことをやる」という状態です。

やりたいことは、ある日突然、天から降ってくるものではありません。

やってみたいと思ったことを試し、その経験を振り返り、自分の反応を見つめる。その中で、「自分にとってこれは何なのか」という定義が少しずつ育っていく。

その結果として、自分の目の前に形を変えて繰り返し出現していたものが、「実はそれが自分のやりたいことだったのだ」と気づくものです。

自分哲学があると、行動は続いていく

「やりたいことをやる」という言葉は、単なる思いつきで行動するものだと捉えられがちです。

しかし、実際には行動と論理の前にある定義、自分哲学という概念を前提にした方が、継続的に取り組めます。

自分哲学があると、「こうした方がいい」という論理や、「こうしたら面白いかもしれない」という好奇心が、生まれ続けるからです。

やりたいことが見つからないときに、いきなり答えを見つけようとするのはやめましょう。

まずは、やってみたいこと、ほんの少しでも心に引っかかったことを試してみる。

そして、試してみたあとに、自分が何に惹かれたのか、何に退屈したのかを振り返る。

その積み重ねの中で、自分の着眼点が見えてきます。

同時に、「自分にとって、これはこういうものだ」という定義が生まれてきます。

その定義が、自分哲学です。

そして、自分哲学が育ってくると、「次はこうしてみたい」という発想と好奇心が、自然に動き始めます。

やりたいことは、探し当てるものというより、経験を通して少しずつ輪郭を持っていくものです。